大阪地方裁判所 昭和41年(わ)918号 判決 1969年5月30日
被告人 坂本泰生
大一〇・九・一二生 無職
主文
被告人は無罪。
理由
第一、本件公訴事実は、
被告人は、高槻市西天川一一八番地(現在は同市沢良木町二番五号と改称)所在学校法人高槻高等学校(以下学校と略称)の教諭であつたもので、学校教職員の一部をもつて組織する大阪私立学校教職員組合連合加盟の高槻中高等学校教職員組合(以下組合と略称)の組合員であるが、組合ではかねてより学校側に対し、給与改訂、夏季一時金、学園の民主化等を要求して闘争中、
(一)、昭和四〇年七月一六日午前一〇時二〇分頃、学校校長室において、茨木和男ほか数名の組合員とともに、校長松山凌三郎(当五七年)に対し、組合員が学校の建物にアジビラを学校側に無断で貼付したのを同校長が撤去したことに抗議し、右茨木和男と共同して、同校長が坐つている椅子に腰部を当ててゆさぶり、同校長が立ち上ると、数回にわたり腕組みしたまま両肘で校長の胸を突きあるいは腹を腰部に突き当てて体当りする等し、もつて数人共同して暴行を加え、
(二) 同月一七日午後二時四〇分頃、右校長室において、右茨木和男ほか数名の組合員とともに、右松山校長に対し、前同様の抗議をするとともに、同校長がビラを撤去したことを確認する旨の書面を作成するよう求めたが、同校長がこれを拒否して室外に出ようとするや、右茨木和男と共同して、校長の面前に立塞がり、数回にわたり、腕組みしたまま両肘で校長の胸を突き、腹部を同校長の腰部に突き当てて体当りし、あるいは校長がズボンのポケツトに入れていた左手を両手で掴んで引つ張り出す等し、もつて数人共同して暴行を加え、
(三)、同年九月一日午後二時三〇分頃、右校長室において、ほか約二〇名の組合員とともに、右松山校長に対し、同校長が同日の始業式の訓示中に、同日朝組合側が生徒に配布したビラについて言及したことを捉え、組合活動に対する干渉なりとして抗議し、組合に対する謝罪等を要求したところ、同校長がこれを拒否して席を立つて室外に出ようとするや、その前に立塞つて阻止し、数回にわたり腕組みしたまま両肘で校長の胸部を突いて体当りし、前後三回にわたつて校長を床上に転倒させ、よつて同校長に対し治療約二週間を要する左臀部挫傷の傷害を与え
たものである。
というにある。
第二、本件に至るまでの経緯(背景事情)とこれに対する当裁判所の判断。
一、公訴事実(一)の時点までの経緯
(一) 被告人は、京都大学法学部を卒業後岸和田市立岸和田産業高等学校教諭を経て、昭和二六年四月、学校法人高槻高等学校(理事長藤堂献三)の経営する高槻市西天川町一一八番地(現在は同市沢良木町二番五号と改称)所在の高槻高等学校の社会科教諭となり、昭和三〇年一月二五日、その中核となつて、高槻中学校の教職員を含めて高槻高等、中学校教職員組合(大阪私立学校教職員組合連合に加盟)を結成し初代委員長に就任したが、間もなく結核を患い約二年間休職したためその地位を退き、復職後は主として非組合員の教諭らを結集することに力を注いで来たが、昭和四〇年五月頃以降再び活発に組合(当時の委員長浦谷照雄、組合員数二〇数名)の活動を行うようになり、主として法規対策的な面を担当していた。
(二) 同校の職員会議は、昭和三九年九月に松山凌三郎が校長(兼理事)に就任するまでは、月二回開かれ比較的円滑に運営されていたが、松山は校長に就任後、職員会議はあくまで校長の諮問機関であり校長がこれを主宰するという方針を宣言した上、開催回数を月一回に減らし、その替りに月に一回開かれる主任会議において事前に問題を討議し特に職員会議に付す必要があるとされたもののみを職員会議の議題とすることとした。このため主任会議で必要なしとされたものおよび緊急の議題は事実上職員会議では討議できなくなつた。これを不服として組合員の教諭らが主任会議を傍聴させることを要求したこともあつたが同校長はこれをも拒否した。その上同校長の議事進行のやり方は、職員の意見を十分とりあげ討議討論を深め職員の総意をまとめるというようなものではなく、ややもすれば校長ないしは理事者側の意向方針を一方的に伝達するという傾向を帯び、職員会議の運営はとかく円滑さを欠くようになつた。
(三) 又学校においては昭和三六年から昭和三九年まで原則としてクラス担任を外されたものはなかつたが、昭和四〇年三月、茨木、久保の両教諭(同年四月当時茨木は組合の副委員長、久保は執行委員)がそれまで担任していた高校三年の生徒を卒業させた後、松山校長は新学年において両教諭を中学高校のいずれのクラス担任にも配置しない措置をとつた。このことを同年四月の職員会議で初めて知つた両教諭らがその理由を問い質すと、校長は「茨木については同人が夜間高校の講師に行くため。久保については同人が長年担任を続けたのだから一年休んでもらうため。」とそれぞれ説明した。そこで両教諭らが更に「他の非組合員の教諭で長い間担任をした者又は他校の講師になつている者がいるがこれはどうか」と追求したが校長はこれに十分な説明をしないままこの人事を押し切つた。そのため組合は校長が担任配置の点で組合員を差別扱いしたと受取つた。
なお松山校長は同年四月頃校務分掌についても例えば「進学対策係」について、その係を希望していた茨木、久保両教諭を外し、替りに希望もしていない他の教諭を充てる等職員の希望を無視した割り振りをしたり、カリキユラムについても職員が協議して作成した案を一存で改編を命ずる等したため、職員の間から相当不満の声が出て来た。
(四) 又昭和三九年の夏休みに組合員の教諭らが翌年五月の修学旅行の下見のための旅行を行い、この際の旅費の支給を北村八郎校長およびその後任の松山校長に重ねて請求したが、両校長はいずれも修学旅行の下見をする必要性を認めないとしてこれを断つた。ところが昭和四〇年五月修学旅行のあとで旅行社から学校に対し下見旅行の費用の請求書が届き、松山校長はその費用が相当多額であつたことから不審を抱き、庶務課長に費用の内訳について調査することを命じた。たまたま組合は校長が調査を命じたことを知り、右調査は下見旅行の費用の調査に名を藉り、組合員の動向、言動を秘かに調査するものであるとして松山校長に抗議した。
(五) このような状況のもとに、昭和四〇年五月二六日組合は理事者に対し文書で「当今本校においては時代に逆行する極めて非民主的な学校行政が行われている。学校は教職員の自主的な意見と判断に基いて運営されてこそ教育の目的を達成できるものと考えられるのに、校長はいたずらに権力を振りまわし、すべて己の意のままに動かそうとし、職員会議においては大多数の職員の意見を無視し、担任配置、校務分掌等についても教育的配慮が見られない。我々は教育者としての責任を自覚するが故に、左のことを理事者の責任において学校長に実行させるよう要求する。」として、
「一、職員会議を教育に関する学校運営の最高決議機関とする。
具体的には、(イ)互選による議長の選出。(ロ)議題の公示。(ハ)教職員の意思による開催。
一、教科担当、学級担任、校務分掌一切を職員より選出された機関により決定すること。
一、その他学校運営に話し合いの原則を貫くこと。」
等を要求した(昭和四〇年五月二六日付要求書の写)。しかし理事者はこの要求を同年六月一六日「到底応じ難い。」として拒絶した(同年六月一六日付回答書の写)。
職員会議の問題に関しては、右のような運営の状況を改めるため、職員会議の席上でも同年五月頃以降組合員を中心とする教諭らが「職員会議は校長以外の教諭から議長を選出しそのもとで運営すべきである。」との議題を繰り返し提出していたが、校長は「学校の運営はすべて校長が決定しその責任を負うものであつて、職員会議は校長の諮問機関であり校長に対して助言し補助する機関にすぎないから議長を設ける必要はない。」等と述べて、この議題については審議しないと述べて会議を打ち切る措置をとるため、同年五月頃から職員会議は正常な審議が不能になつた。
(六) 学校と組合との団体交渉(以下適宜団交と略称する)は、従来組合側は随意の人数が出席し、学校側は主として校長が出席して行つていたが、北村が校長(兼専務理事)に就任して初めての団交が昭和三七年末、年末一時金を議題として開かれた際、北村は、人数双方同数四名以内(但し中一名は記録係)、時間一~二時間以内で団交を開きたいとの方針を打ち出した。それに対し組合側は抗議したが、議題が急を要する関係もあつてその際は学校側主張の人数で団体交渉に臨んだ。ついで翌三八年一月組合が住宅手当等を要求して団体交渉の開催を求めたのに対し、学校は要求の内容を文書で具体的に説明せよ、その上で焦点をしぼつた団体交渉を行いたいと回答し、これに応じて組合が文書で説明したところ、こんどは学校は組合員名簿と組合規約の提出を待つて団体交渉に応じたいと主張し、組合がこれを拒否したため結局団体交渉は開かれなかつた。同年三月の試験手当に関する団交の際には、学校は人数双方二名(中一名は記録係)を主張し、組合の強い抗議により同年四月には双方三名(中一名は記録係)とややこれを緩和した。この人数で数回団交が開かれて来たが、翌三九年六月組合が夏季一時金と団交の人員時間の増加を要求して坐り込みを行つた結果、双方四名(中一名は記録係)と更に緩和した。この人数で昭和四〇年四月まで団交が開かれて来た。この間組合側は学校側に対し、学校が団交出席人数を制限するのは不当である、組合側の人数は組合で自主的に決定すべきものであると絶えず抗議を続け、学校側の主張する人数以上の人数で団交に臨みもしたが、そうすると学校側出席者は「人数が違う」と主張するのみで実質的な交渉に入らないという態度に出るため、交渉が行えない結果となつていた。
(七) 一方同校の専任教諭の給与体系は、昭和三〇年頃以来府立高校の給与体系の一号俸上ということで続いて来ていたが、学校側は昭和三八年四月には、ベースアツプの時期を公務員のように前年の九~一〇月頃に遡らせることはしないでその替りに差額の全額を一時金として支給し、ついで翌昭和三九年四月になると、この一時金を一万円に制限する措置に出た。組合はこれを争い、従前通りベースアツプの時期を公務員にならい前年に遡及させよと要求して、昭和三九年の秋に一回団体交渉が開かれたが、なんら解決を見ないままに昭和四〇年四月を迎え、学校はベースアツプの時期を前年に遡及せずしかも一時金を打ち切つた新給与体系を発表した。そこで組合の要求によりこの件につき同年四月から五月にかけ二回ほど団交が開かれたが、学校側が人数双方四名以内(中一名は記録係)を主張していたのに対し、この席に組合は六~七名の人数で臨んだところ、団交の人数の問題だけで紛糾し給与問題については交渉に入れなかつた。そのため同年五月一四日、当日予定されていた団交に先立ち、学校は組合に対し文書で「前二回の団交に際し当方が従来通りの人数で団交に応じたい旨回答したにも拘らず組合が人員条件を無視したため交渉に入れなかつたことは遺憾である。本日の団交に先立ち重ねてその条件を記し(人員双方三名および記録係一名、時間一時間以内というもの)組合の協力を期待しその諾否を求める。」旨要求した(昭和四〇年五月一四日付要求書の写)。これに対し組合は「人員条件を無視したというがそれは理事者側の出した一方的条件であつて労使間の話し合いによつて確立された条件ではない。従つて交渉に入れなかつた責任は理事者側にある。理事者側が組合側団交員の人数を指定するが如きは不当な組合干渉と考えられる。すみやかに労使双方が自主的に決定した団体交渉員による交渉に入るべきである。」と文書で回答した(昭和四〇年五月一四日付回答書の写)ところ、学校側は要望書と題する文書(同年五月一四日付要望書の写)で「従来通りの条件で組合が諒承されるのを待つて団体交渉を開きたい。」と回答した。そのため組合側は重ねて文書(同年五月一四日付抗議文の写)で、「学校側が今回の給与改訂を一方的に行い、組合の団交要求に対しては交渉員三名時間は一時間以内という条件をつけてこれを承諾しなければ団交に応じないという態度に出たことは不当である。」と強く抗議した。その後同年六月初め頃組合は夏季一時金の件につき学校側に繰り返し団体交渉を要求したが、学校側は、前記条件を認めない限り団交には一切応じないとの態度を堅持した。そのため組合は同年六月一五日「理事者側は去る五月一四日事実上団交を拒否して以来組合の抗議に対して何ら誠意ある態度を示さない。これは問題解決への平和的な道が理事者側によつて完全に閉ざされたことを示すものであつて、今後の事態についての責任はすべて理事者にある。本組合は全員一致の決議によつて、理事者側の責任を徹底的に追求し、正当な労使関係確立のために組合の権利に基きあらゆる手段によつて斗争することを宣言する。」旨の斗争宣言(同年六月一五日付斗争宣言の写)を出すに至つた。
(八) その後同月一九日には非組合員に夏季一時金が支給され、このことを知つた組合は、なんとしても夏休みまでに団交を再開し問題を解決しなければならないと考え、同月二九日大阪地方労働委員会(以下地労委と略称する)に斡旋の申請をした。地労委の斡旋は同年七月一二日に開かれ、学校側は北村専務理事、松山校長、小野教務部長が出席し、組合側はほとんど全員が赴いた。斡旋は団交出席人数を中心にして行われ、当初組合は、組合側の団交出席人数は組合が自主的に決めるべきことを主張し、学校側は従来通りの人数を主張して平行線をたどつたが、地労委の努力により、組合は、あくまで団交の人数は組合が自主的に決めるべきものであるが、特別の場合を除き通常の場合は五~六名程度の人数で行いたいと譲歩し、学校側も五~六名程度という人数の点は了承したため、この点は口頭諒解事項として斡旋を終り、地労委斡旋員から、(一)団体交渉の内容、出席人員、時間等については一方的に取り決められるものではなく、労使双方が十分話し合つて自主的に合意の上で決めるべきものであるから、労使双方は早急に団体交渉を持ち得るよう努力されたい。(二)団体交渉において決つた事項については双方文書をもつて確認し速やかに履行すること。との勧告(昭和四一年押第五八一号の四、勧告書)がなされ、組合側は直ちにこれを受諾し、学校側も七月一四日これを受諾した。
(九) 翌七月一五日北村専務理事は組合の浦谷委員長に対し、「地労委の勧告に基き、本日午後一時から校長室において団体方式について予備的協議を開きたい。」と文書(昭和四〇年七月一五日付申入書の写)で申入れた。これに対し組合は夏季一時金等を議題として団体交渉を開くよう要求し(同日付団体交渉要求書の写)、同日午後一時過ぎ、地労委で了解の出来ていた六名の人数(浦谷委員長、被告人、久保、茨木ほか)で校長室に赴いたところ、同室に居た北村専務理事および松山校長は、当方の要求したとおり本日は専務理事と委員長の一対一でやりたいと述べ、組合の団交要求を拒否した。組合側は、一対一の予備折衝というようなことは知らない。夏季一時金の問題は夏季休暇を目前に控えて緊急を要することであるから本日直ちに団交を開いてもらいたいと重ねて要求したが、北村専務理事は本日は予備折衝をやりたいと繰り返すのみで議論は平行線をたどつた。午後四時半頃北村らは「予備折衝に応じないのなら今日はもう帰る。」といつて退出しようとしたが、部屋の入口付近に集つた組合員らから「直ちに団交に入つてもらいたい。帰つてもらつては困る。」と強く抗議を受け、そのため再び部屋の中に戻らざるを得なくなつた。その前後から北村らは組合側の発言に対して沈黙を守るようになり、組合側が夕方頃には「暫く休憩して食事を済ませてから団交をしようではないか。」と、又日が暮れてからは、「それでは次の団交の期日をここで約束してほしい。」等と要求したがこれらを一切黙殺し、双方にらみ合いの状態で午後九時頃になつた。この間北村が庶務課長を兼務している大阪医科大学の方から、北村に対し度々様子を尋ねる電話がかかつて来たり、迎えの人が来たりしたが、午後五時頃から北村はこれらに対し「帰りたくても帰してくれない。段々体が参つて来た。」等と答えていた。午後九時過ぎ高槻警察署の警備課長他二名位の警察官が校長室に入つて来て、労使双方から事情を聴取した後、組合側に対して「九時半までに退去せよ。退去しなければ不退去罪になる。」等と述べて北村らを学外に連れ出した。
以上の事実は、被告人の当公判廷における供述、(中略)を総合して認める。
二、右一、に認定した公訴事実(一)の時点までの経緯についての当裁判所の判断。(特に証拠を引用していない事実は前掲各証拠を総合して認める趣旨である。)
(一) 職員会議の運営とこれに対する組合の要求の当否について。
検察官は、「組合は職員会議を教育に関する学校運営の最高決議機関とすることによつて、学校側に対する実質的経営権の掌握を狙つていたものである。」と主張する。そこで判断するに、職員会議の法的性質が教育に関する学校運営の最高決議機関か諮問機関かについては争いがあるばかりでなく、実際の運営においても大阪府下において最高決議機関的な運営をしていた学校もあつたことが窺われ、更に組合の主張は、最高決議機関とはいうものの、職員会議で決定したことに対する校長の拒否権を認めない趣旨ではないというのであるから、それは結局教育に関する学校運営については、直接教育の現場に立つ教諭らの総意(これは終局的には職員会議の決議という形で現わされる。)を最大限に尊重してもらいたいという主張に帰するのであつて、組合の職員会議に関する前記要求は、当時松山校長の学校運営のあり方に種々問題があつたことに鑑みても不当な要求であつたとは認められず、職員会議の構成員中組合員が過半数であるか否かに関係なく、学校の経営権が侵されるおそれがある要求であつたとも考えられない。
(二) 組合のその他の要求ないしは抗議の当否について。
茨木、久保両教諭をクラス担任から外した件、修学旅行の下見旅行の旅費の件についての組合の受けとり方ないしは右についての学校側に対する抗議の当否について検討するに、松山校長が右両教諭をクラス担任から外した昭和四〇年三月頃には、生徒数が次第に減少し従来クラス担任であつた者をすべて担任から外さないことが可能であつたかどうかは疑問であるが、過去数年間クラス担任を外された者がなかつた実績および当時両教諭はいずれも組合の役員であつたことなどから、組合としては松山の右措置を組合員に対する差別待遇と受けとつたことも強ち牽強付会とは思われない。又松山校長が下見旅行の旅費について調査を命じたことに対し組合が抗議したことも、右下見旅行の旅費を学校側で支払う意思がなかつたと推認される以上、調査の目的が那辺にあつたかを諒解し難く、先に認定のとおり当時松山校長と組合との意思疏通が十分行われていなかつた背景事情を併せて考慮すれば、組合のいいがかり的な行動とは認められない。
(三) 団交の人数について。
検察官は、昭和四〇年四月頃から組合は団交人員につき従来の慣例(労使双方記録係を含め四名ずつ)を無視する態度をとるに至つた、と主張するが、なるほど前年の六月頃からその人数で団交が開かれては来たが、僅か一〇ヶ月ほどの期間のことでもあり、又その間組合側は絶えず抗議を繰り返して来たのであるから、その人数が労使間の慣行になつていたということは出来ない。思うに労働組合の団体交渉権は労働三権の中の基本的なものであり、使用者は組合が合理的な時間、場所、人数、態度で団体交渉を求めるものである限り誠意をもつて交渉に応ずる義務があり、組合側の交渉人数についても、それが合理的な人数である限り、反面から言えば使用者がそれに異議をとなえる正当な理由がない限り、組合側の主張する人数で団体交渉に応ずる義務があるというべきである。団交人数については、それが余りに多すぎると実質的な交渉が行い難くなり、又応々にして真の団交とはほど遠いつるしあげ的「大衆団交」になり易いことは理解できる。しかし同校に於ては、北村が校長に就任する以前にはしばしば相当多数(一〇数人)の組合員との間で団交が行われていたけれども、その為に格別の弊害が起つていたと認めるに足りる証拠もなく、北村就任後に於ては、組合側は北村が人数を制限する方針を打ち出したのに対抗して団交の人数は組合で自主的に決定すると常に主張してはいたが、当時の組合員全員二〇名位で団交に臨もうとしたこともなく、実際に要求し又団交に臨んだ人数はせいぜい六~七名であつてつるしあげ的状態が起つたこともない。昭和四〇年四~五月にかけての給与改訂についての団交に際しても六~七名の人数で臨んだのであるが、この人数は組合側にとつては三~四名と比べてその交渉能力に相当の違いがあることが理解できるとともに、組合が従来の団交人員を増して交渉に臨もうとしたことも、事が組合にとつて基本的な問題である給与改訂であり、しかも殆ど一方的な改訂であつたことなどに鑑みれば無理からぬことであつたと認められる。他方学校側としては多少交渉がやりにくいと感じたかも知れないが、しかし実質的な団交に支障が生ずるほどの人数とは到底言えず、記録係を含めて四名というのが労使間の慣行になつていたとは言えないことは前述のとおりであり、他に学校側が人数問題について六~七名の人数では団交に応じられないとする正当な理由は見出すことができない。従つて学校側が昭和四〇年四~五月頃の団交において人数が違うと主張して実質的交渉に入らなかつたこと、および同年五月一四日に「組合が学校側の示した条件(前述)を諒承するのを待つて団交を開きたい」として同日以降団体交渉を拒否したことは不当労働行為であると言わざるを得ない。
(四) 昭和四〇年七月一五日の件について。
検察官は、「七月一五日の件につき、予備折衝について、学校側は、人数については口頭諒解が出来ていたけれども、組合側の反対により勧告文に明記されておらず、組合側は当時尖鋭かつ斗争主義的態度をとつていたため、本格的な団交を開く前に専務理事と組合委員長とのトツプ会談で口頭で諒承されていた人数で今後団交が行われることの確認を得たいと考えたものであり、地労委も労使双方に対し予備折衝を行うことが望ましいと伝えているのであるから、学校側に団交拒否の意思がなかつたことは明らかである。」と主張する。そこで判断するに、確かに組合が首切りなど異例の場合にも拘束されるおそれがあるとして勧告文に人数を明記することに反対したことは事実であり、又学校側の団交拒否に応じて当時組合がある程度態度を硬化させていたことも認められるにせよ、組合は地労委という公的機関の斡旋を経て懸案の団交人数についても五~六名程度でという諒解が出来た以上当面の団交に於いてその人数で団交に臨むつもりであつたことが推認され、従つて学校側が口頭で諒解されている人数について確認を欲するならば、団交の席でそれを最初に行えば足りるのであつて、あらかじめトツプ会談で予備折衝をする必要があつたとは認められない。地労委が労使双方に対し予備折衝をすることが望ましいと述べたかどうかは判然としないが、仮にそれが認められるにしても、予備折衝につき組合が諒解していた訳ではないことは明白である。証人松山凌三郎、同北村八郎の当公判廷における各供述(以下当公判廷における証人の供述は松山証言というように略称する)によれば、学校側はトツプ会談においてそれまで山積していた問題についてその内容についても話し合つて一応の解決の目途をつけることを期待していたことが認められるが、学校側のこういう態度は勧告の趣旨にもとるものと考えられる。
一方組合側の団交要求の議題の中、夏季一時金の件は、既に非組合員には一ヶ月前にそれが支給され、又二日後には夏休みに入るという状況下にあり、組合員の生活にかかわる至急を要する問題であるから、組合が団交の即時開催を強硬に主張したことは十分に理由がある。結局七月一五日の件については、学校側は五月一四日以降相当の期間団交を拒否し続けた上、地労委という公的機関の判断を経てその勧告を受諾し、しかも中心問題であつた団交人数については口頭諒解が出来ていたにも拘らず、予備折衝を固執して組合側の団交要求を拒否したのであつて、このことは明白な不当労働行為であるといわざるを得ない。
第三、公訴事実(一)、(二)について。
一、当裁判所の認定事実。
(一) 公訴事実(一)(七月一六日の事件)について。
昭和四〇年七月一五日、警察官が北村らを校長室から連れ出した後、学校に残つた組合員らは協議の上、北村専務理事らが地労委の勧告にも拘らず団交を拒否し、労使間の問題に警察力を導入した以上、学内だけで問題の解決が出来なくなり、対外的にこのような緊急事態が学内に起つていることを訴える必要があると判断した。そこで「血迷つたか北村八郎、警察権力介入を要請」と題し、「我々は地労委の勧告に基づき団交を要求したが、北村は一対一の交渉を主張するのみで我々の質問には一切黙秘し、我々は延々七時間も待たされ、返事を期待していたところ、理事者側の要請によるという数名の警察官が校内に乗り込み、我々に不退去罪を適用するなどと脅し文句を並べて、北村、松山を学校から連れ出した。理事者は我々との話し合いを警察権力を借りてまで拒まなければならない理由は一体どこにあるのだろうか。」との趣旨のビラ(縦約一メートル、横約三メートル。北村八郎撮影の写真二葉参照)を作成し、同日午後一〇時半頃、同校の管理校舎(事務室、校長室、職員室などから成つている)の正面玄関を入つてすぐ突き当りの事務室の受付窓口の上部の壁にセロテープで貼り付けた。翌一六日午前一時頃学校の方が何か気になつて学校へやつて来た松山校長がこれを発見し、掲示すべきでないところに無断で掲示し、内容も良くないとしてこれを撤去した。一六日朝登校した組合員らは前夜貼つたビラがなくなつていることに気付き、両び同文のビラを作成して組合員の久保次昭らが同じ場所に貼つているとき、松山校長が「貼つてもらつては困る」と言つたが、同組合員らはこれに構わず貼り終えその場を立ち去つた。松山校長は直ちにこれを撤去し、久保に返還した。久保は校長が撤去したことに抗議し、更に前夜のビラについても校長が撤去したことを知り、要求してその返還を受け、再びその二枚のビラをもとの所と校長室前の廊下の壁にこれまで同様セロテープで貼付した。
組合は久保から校長が組合の貼付したビラを撤去した事実を聞き、組合の権利に対する重大な侵害で看過できないとして、直ちに校長に抗議することを決め、同日午前一〇時一〇分頃、代表として被告人、久保、岡本らが校長室に赴いた。被告人は中心になつて、「管理権に基いて撤去したというが、ビラは組合のものであるから、それは法の救済によらない自力救済的な行為であつて、管理権の名による実力行使である。それはあたかも家主が立ち退き請求に応じない借家人を自力で追い出すようなものであつて不当である。校長がそういうことをするなら組合も実力行使で対処せざるを得ない。」等と抗議した。松山校長は同人の机の回転椅子に坐つたまま、管理権で撤去したと繰り返すのみで、あとは一切沈黙し、被告人らの抗議に十分な回答をしなかつた。そのため被告人は校長の坐つている回転椅子の方に詰め寄つて行き、椅子の肘掛の付近に腰部を当てて返答を促すように二、三回押した。そのために椅子が少々ぐらついたか又は少し回転したため、校長は椅子から立ち上り、なにをするのかという態度で被告人の方へ詰め寄つた。被告人はその勢いに押されて若干後退したが、すぐに今度は被告人において「実力でビラをはがすのは不当ではないか。」などと語気鋭く追求しつつ腕組みして校長の方へ詰め寄り、腕組みをしたまま数回校長の胸のあたりを押した。校長はその威勢に押されて窓際の方まで約二メートル程後退した。ついでその頃校長室に入つて来た茨木和男も、校長のすぐ側まで来て「どうしてビラをはがしたのか、けしからんではないか。」と抗議しながら腕組みしたまま身体で数回校長の腰のあたりを押した。その後被告人らは午前一〇時四〇分頃終業ベルが鳴つたので職員室へ引きあげた。以上の事実は、被告人の当公判廷における供述、(中略)を総合して認める。
(二) 公訴事実(二)(七月一七日の事件)について。
翌七月一七日は既に夏休みに入つていたが、組合は午前中から組合員一〇数名が出席して組合会議を開き、数日来の団交拒否、警察官導入、校長による組合ビラ撤去などの事態についての対策等を討議した。その結果これらの問題につき今後の成行によつては地労委その他の公的機関へ提訴する必要が生ずるかも知れない、そのためにビラ撤去の件については校長が管理権で撤去したことを認めている今の段階で確認書をとつておく必要があるということに意見が一致し、「七月一五日の深夜および一六日の午前中、私は(校長のこと)組合のビラを法の救いによらず自力で撤去した」旨の確認書を作り、全員で午後二時半頃校長室へ赴いた。そして被告人、茨木、久保らが中心になつて校長に組合側が用意した確認書に署名することを要求したが、校長が「私がはがしたことは認めるが、それに署名はしない。」と拒絶したため、組合側は確認書の文書に不満があるのかと思い、白紙を持つて来てそれに好きなように書いて欲しいと要求した。校長は「私が判断して必要な時期が来れば書くが、今は書かない。」とこれを拒否したが、組合員らはなおも本日確認して欲しいと強く要求し、「それではテープレコーダーに吹き込んでもらいたい。」とまで言つたため、校長はついに組合員が持つて来たテープレコーダーに「私が管理権に基きビラを撤去した。」旨吹き込み、間も無く午後三時頃同室を退出した。以上の如きやりとりの間、組合員が校長に対し確認書への署名を要求している時点において、ズボンのポケツトに手を突つ込んで立つていた松山校長に対し、茨木が「あなたは父兄や生徒の前でもいつもそうしてポケツトに手を突つ込んで話をするが、我々が生徒を指導する上で大変困る。さあ手を出して下さいよ。」といいつつ、ポケツトの校長の手を出そうとして自己の手を校長の左手付近に差しのべた際、校長が茨木のその手を振り払うようにポケツトから手を出したので、そのとき双方の手が触れ合つた。又この前後被告人および茨木はいずれも腕組みしたまま数回校長の胸あるいは腰のあたりを押した。
以上の事実は被告人の当公判廷における供述、(中略)を総合して認める。
二、右認定事実に関する証拠についての判断。
右認定事実に関する被告人および茨木の行動について、検察官は、公訴事実(一)(七月一六日の事件)については、「被告人は(松山がたまりかねて立ち上る程)松山校長の坐つている椅子に腰部を当ててゆさぶつた。ついで腕組みして肘と腰で一〇数回校長に体当りをした。茨木も又腕組みをして腹で数回体当りをした。」
と、公訴事実(二)(七月一七日の事件)については、「被告人は腕組みして肘と腰で数回体当りを加えた。茨木は松山がズボンのポケツトに入れていたその左手を掴んで引つ張り出し、更に腕組みして体当りをした。」と主張し、これに対し被告人および弁護人は、七月一六日の被告人の行為、および七月一七日の茨木が松山校長の左手を引つ張り出したという行為については、その程度、内容は別にして少くとも外形的には一応類似した行為のあつたことを認めるが、その他についてはそのような事実は全くないと主張し、双方の側の証人はそれぞれ自己の側の主張に概ね副う供述をしている。
そこで検討するに、先に認定したとおり、公訴事実(一)、(二)の時点に至る間の理事者、松山校長と組合との関係は、職員会議の問題を中心とする松山校長の学校運営方針に対する組合の不満、これに対する校長の反撥などから、漸次敵対的な色彩を強め、両者間の団体交渉も最終的には行われなくなつた状況に立ち至り、昭和四〇年七月一五日の警察官導入を契機としてその関係が益々悪化した時点において公訴事実(一)、(二)の事件が発生したもので、右事実に本件が労使間の紛争に関連して起つたものであることを併せ考慮すれば、検察側、弁護側の各証人がそれぞれ意識的にか無意識的にか自己に有利な供述をし勝ちになることは自然の成行ともいえるので、右公訴事実に関する被告人、各証人の供述は、その他の情況証拠、間接事実を十分考慮しても、そのまま全面的には措信し難く、前掲各証拠を総合して前示のとおり認定した。
なお当裁判所の心証形成において、組合の法規対策部長的な地位にあつた被告人を中心として組合員らは、昭和四〇年七月一五日の警察官導入以前から、いやしくも刑罰法規に触れるおそれのある行動は慎しむべきことを互に戒め合つていたこと(川原証言等)、右公訴事実(一)、(二)の事件は警察官が学校内に導入された翌日、翌々日の出来事であつて、被告人ら組合員は警察が学校内の出来事について関心を持ち注視しているであろうことを推察し警戒心を持つていたと思われることを参酌したことを付言する。
三、右に認定した被告人および茨木和男の各行為に対する法的判断。(特に証拠を引用していない事実は、前掲各証拠を総合して認める趣旨である。)
(一) 先に認定したとおり、昭和四〇年七月一六日、同月一七日の両日における、被告人および茨木和男の各行為の中一応人に対する有形力の行使と認められるものは、右両名が腕組みしたまま松山校長の身体を押した行為と、七月一六日被告人が校長の坐つている椅子の肘掛の付近に自己の腰の部分を当てて二、三回押した行為であるが、その行為の強弱の程度について判断すると、松山校長自身、被告人、茨木に突かれ(押され)はしたが、一寸よろめいた程度で、体当りとはいうものの突きとばすというようなものではなかつたと述べていること(第三、第五回公判調書中の証人松山の供述部分)に鑑みても、右両名が校長の身体を押した行為はさほど強度のものであつたとは考えられないし、被告人が校長の坐つている椅子を押した行為についてもその前後の状況から、同じ程度のものであつたと推認され、右各行為の行われた時間も極めて短時間であつたことが認められる。
(二) 被告人および茨木の右各行為は、松山校長に対する有形力の行使と認めざるを得ないが、右行為を暴力行為等処罰に関する法律一条(刑法二〇八条)に違反するものとして被告人に刑事責任を問うためには、右行為が実質的に処罰に値するものであるかどうかを検討すべきであると解する。
(1) 公訴事実(一)、(二)の事件発生までの背景事情については、先に第二、の項において認定判断したとおりであり、再説を避けるが、要するに学校に於ては北村校長就任後特に松山校長就任以来、理事者側と組合との関係はとかく円滑さを欠き、組合側に格別違法不当な越軌行為がないのに拘らず、理事者側は組合並びに組合員を異端視する傾向があつたことは否み難く、ついに事態は理事者側が地労委の斡旋による勧告の趣旨を無視して組合との団交を拒否するに至つたのである。
(2) 次に右公訴事実の時点における背景事情について検討する。
(イ) 昭和四〇年七月一五日に組合の団交要求を学校側が拒否したことが明白な不当労働行為であることは既に述べたとおりである。従つて同日午後四時半頃北村と松山が校長室を退出しようとしたときに、組合員らが出入口付近に集つて「団交を開け、帰つてもらつては困る。」と強く要求し、そのため北村らが一時退出を阻止された結果となつたとしてもやむを得ざることであつたといわざるを得ない。午後四時半頃以降午後九時頃まで、組合が当日の団交を要求し、あるいは次の団交日時を決めることを要求し続けたことについても、団交の目的が主として緊急切実な夏季一時金支給の件であつただけに、その間組合員から、団交要求を黙殺し続ける北村、松山らに対し多少激した非難の言葉が発せられたことはあつたが強いて非難するに値しない。又当日組合員は話合いが長時間にわたるので食事をしたり休憩することを提案し、北村、松山の用便の自由を拘束した訳でもなく、松山自身も監禁されているという緊張感はなかつたと自認している(第三回公判調書中の証人松山の供述部分)のであつて、組合員が北村、松山を不法に監禁した如き事態があつたものとは認められない。なお北村が大阪医科大学の関係者に夕方過ぎから「身体が参つた」と盛んに言つたことは認められるが、そのころには誰しもある程度疲労していたであろうことは推認出来るとしても、比較的年の若い、当時四三才の北村が果して他に救援を求めねばならない程疲労していたかどうかについては疑念を払拭し切れない。
要するに、当日の話合いが長時間にわたつたのは、直ちに実質的な団交に入るべきであつたと思料される理事者側が、不当に団交を拒否したことに主として起因するものというべく、その間に叙上のとおり組合員の側に違法不当な越軌的行動が認められない以上、理事者側が警察に連絡して警察官を学校内に導入する必要性があつたとは到底認め難い。
(ロ) そこで次に、組合が前述の如くに警察官を導入した学校側の責任を糾弾するビラを玄関付近等に貼付したこと、並びに松山校長が自力でこれを撤去したことに対し組合が抗議したことの当否について検討する。
まず、組合の基本的な権利である団体交渉権を右の如き経過で踏みにじられた上、不当と評価し得る警察官導入という事態に直面した組合が、自らの団結権を擁護するため、理事者側の不当な行動について第三者に訴え、且つ理事者の反省を求めること自体は組合の正当な活動であることはいうまでもない。
ところで企業別組合が一般的である我国の現状を基礎に置く限り、使用者の企業施設の利用は組合の活動にとつて不可欠であつて、団結権が保障されている以上一定の場合には使用者は組合の施設利用を受忍する義務を負うといわざるを得ない。その限界は、結局労使双方の受ける利益不利益の比較衡量を中心として一切の事情を総合的に考慮することによつて決せられるべきである。本件について検討するに、組合は従来組合関係のビラ等は職員室内の一定の掲示板に掲示するのを原則としていたところ、本件の場合は先に認定のとおり管理校舎の事務室の受付窓口の上部の壁に貼付したものであるが、貼付の場所が管理校舎で丸一日後には夏休みに入ることからしても学校の業務遂行に格別の支障を与える程のものとも思われず、セロテープで貼付したのであるから事後に建物に汚染を残すおそれもない。ただ学校という場所であるだけに、生徒に対する教育的配慮という点から更に考える必要があるが、確かにビラの文言には措辞いささか不穏当な個所があることは否定できないが(北村八郎撮影の写真二枚)、他方貼付の場所が管理校舎であることから考えると必ずしも生徒の目に触れ易い場所とも言えず、又本件ビラの貼付は、前述のとおり組合が組合員にとつて切実緊急の問題である夏季一時金の支給を主題とする団交の開かれることを切望していた時期に、理事者が不当に団交を拒否したばかりか不当に警察官を学内に導入したことに対し、右事情を第三者に訴え且つ理事者の反省を求めるため、組合の決定に基づきなされたものであること等一切の事情を総合して判断すると、組合のなした本件ビラの貼付に対し学校側はこれを受忍する義務があるものといわざるを得ない。従つて又校長がビラを自力で撤去したことに対し組合が抗議を行つたことは、組合の団結権ないしは団体行動権を擁護するための団体行動権行使の一環としてやむを得ずなされた行為であつて、正当な組合活動の範囲を逸脱するものではないと思料する。
(3) 公訴事実(一)(二)の事件当日の現場における具体的状況について。
組合は昭和四〇年七月一六日、校長がビラを自力で撤去したことについて校長に抗議し、それは管理権に基くものであるとの校長の一応の言明を得ているのに拘らず、翌一七日校長に対し更にその旨を確認する書面への署名を要求したもので、やや執拗であるとの感を免れないが、地労委の勧告を無視して理由なく団交を拒否する校長に対し極度の不信感を抱いていた当時の組合としては、当時組合が具体的に地労委への提訴等を考慮していたかどうかについて明らかでないとしても、将来を慮り確認書への署名を求めたことは敢て非難するに値しない。
又右両日にわたり校長は組合の抗議、要求に対し一応の回答を与えてはいるが、組合の右両日の行動はすべて団交の拒否に縁由するものであつて組合が切実に団交の再開を要望していることは容易に推察出来た筈であるから、一片の回答に終始することなく、団交の再開等についての理事者側の考え方、立場を説明する等、もう少し誠意ある態度をとるべきであつたと考えられ、一片の回答を与えこれを繰り返すのみで殆ど沈黙に終始した校長の態度に対し、組合員がこれを慊らなく思い更には腹立たしい感情を持つたとしても、無理からぬものがあると思料する。
(三) 以上説示のとおりの公訴事実(一)、(二)の事件当日までの経緯を背景として、被告人および茨木和男の右各行為の動機、目的、手段態様、法益の均衡等諸般の事情を考慮すれば、右各行為は健全な社会通念に照らし、未だ刑法二〇八条所定の暴行罪従つて暴力行為等処罰に関する法律一条違反の罪として処罰するほどの実質的違法性を具備していないものと認めるのが相当である。
第四、公訴事実(三)について。
一、当裁判所の認定事実。
昭和四〇年八月に入り、ようやく団交が開かれるようになり、夏季一時金等について計四回の団交が持たれた。しかし結局もの分れに終り、問題の解決を見ないままに新学期を迎えることになつた。組合は夏休み最後の同月三一日、組合会議を開き新学期の運動方針などを検討する中、夏休み前から学校では紛争が続き、生徒にもある程度の動揺が見られ、六、七月と正常な職員会議が持たれなかつたため夏休みの講習が開かれなかつたことなどから、「教師が闘つている」ということについて生徒の間に誤解を生じているふしがあつたので、これらに対処するため、労働条件についての問題、学園の民主化の問題について、組合の先生がいろいろ要求して闘つている理由について簡潔に説明を加えたビラを作成した。そして翌九月一日朝、組合員が手分けして「生徒諸君へ」と題するビラ(昭和四一年押第五八一号の五)を校門付近で登校して来る生徒に配布した。このことを知つた松山校長は、同日午前中の高校部における始業式の校長訓示の中で、「諸君は今朝組合の先生からビラをもらつたと思うが、そういうビラに惑わされることなくしつかり勉強してほしい。」旨の話しをした。この話を始業式に参列していた茨木教諭が聞き、式の終了後職員室に戻つて居合わせた組合員の教諭らに報告した。そこで引き続き行われる中学部の始業式でも同じことを話すかどうか確かめてみようということになり、永尾教諭が式に出かけたが、戻つて来た同教諭は、「校長は間違いなくこのようなビラに惑わされることなく云々と訓示をした」と報告した。そこで続いて開かれた職員会議の終了後直ちに組合会議を開き、校長に対しビラのどこが生徒を惑すことになるのか釈明を求め、その上で厳重に抗議する必要があると決議し、出席した組合員全員約二〇名位で同日正午過ぎ頃校長室へ赴いた。校長室で組合員らが右の釈明を求めたところ、校長は自席に坐つたまま最初は答える必要がないと述べていたが、間もなく自分は煩わされずに、と言つたのだと答えた。それに対し組合員らは「いや惑わされずにと発言したことは確認している。どこが惑わすことになるのか答えてもらいたい。その上で反省すべき点は反省する。しかし校長の地位を利用して生徒に対し始業式の壇上からそういう訓示をするのは組合に対する侮辱、不当な干渉ではないか。組合に対して謝罪すべきだ。」等と口々に発言したが、校長は「自分は煩わされずにと言つた。だからそれ以上釈明する必要も謝罪の必要もない。」と突つぱね、自分の方の説明は終つたとして組合員に退室することを要求したが、組合員らは納得せず前同様のことを繰り返し申立たが、以後校長はこれにとりあわず一切沈黙を守るようになつた。この時校長室に入つて来た川原教諭は、組合員から事情を聞いて訓示のことを知り、校長に対して「生徒の前で先生を罵ることは教育上プラスにならないではないか。校長は我々の先生なのだから職員が分らないから教えてくれといつたら教え諭してあげたらどうか。立場の相違でものの考え方も違つて来るものだから、組合がそう思わなくても校長の立場から見れば生徒を惑わすと思われることがあるかも知れない。そうならはつきりおつしやつてもらつて私達としても良く考えてみたい。」等と再考を求めたのに対しても校長は何の返答もしなかつた。
そのままの状態で午後二時半頃になつたところ、校長は「もう抗議も聞くだけ聞いたから自分はもう帰る。」と言つて両手に鞄と風呂敷包みを持つて自席から立ち上り廊下に通ずる北側出入口の方へ行こうとした。校長が退室しようとする気配を察知して、その時まで部屋の中の各所に散在していた組合員らは、「返事もせずに失礼ではないか。もつと話を続けて下さい。回答して下さい。まあ掛けて下さい。」等と口々に言いながら大多数が校長の進路の方向に移動した。この時会議用テーブルの東北の椅子に川原が坐り、そこと東側のカウンター式戸棚との間の通路上に被告人が南面して腕組みして立ち、その後北側の壁までの間には久保など一〇人位の組合員が立つて校長の進路を阻む態勢であつた。
そこで校長は、少し位の力をもつて組合員を押し分けてもここは出ようと考え、両手に荷物を持つたまま北側出入口の方へ進み、対面する恰好で先頭にいた被告人に対し、肩を前に出しながら押しのけようとした。そのため被告人は少し後退したが後にいた多数の組合員らに支えられる形となりついで後から前へ押し戻されるような形で校長を押し戻した。一瞬の後、校長が再び被告人の方へ前進して被告人の身体に当つてきたので、被告人は腕組みしたまま校長の胸の辺りを数回押したところ、そのため校長はその場に転倒し尻もちをつき、引続き立上つて同じ態勢をとつた校長に対し、被告人が二回にわたり右同様の方法で校長の身体を押したところ、松山校長もその都度同じ態勢で転倒し(転倒の態勢はいずれもさほど勢良くではなく、松山校長の頭部、背部は床面についていない)、全治約二週間と診断された左臀部挫傷を受けた。なおこの間校長は一言も言葉を発していない。一回目に校長が倒れた後、久保が被告人と後ろの多数の組合員に挾まれて食み出されるようにして川原の坐つていた椅子にもたれかかつたため、川原は後ろを振り返つて校長の倒れている姿を発見し呆然となつたが、同教諭は三回目に校長が倒れた瞬間、「大人気ないぞ。校長ともあろうものが芝居をするな。」と叫びながら被告人の前に飛び出して来て両手を拡げて立つた。ちようどそのころ、校長室北側出入口の内側にある衝立の後の辺りで「暴力だ。」、「暴力とは何だ。」というような同校の高校部長定政熊雄と茨木教諭のいい合う声が聞え、その瞬間校長は小走りで西側の応接室へ通ずる入口を通つて退室した。
以上の事実は、被告人の当公判廷における供述、(中略)を総合して認める。
二、右認定事実に関する証拠についての判断。
右認定事実に関する被告人の行為について、検察官は「被告人は帰さんぞとどなりながら松山の前に立塞り、腕組みしたまま両肘で同人の胸部を強く数回突いて体当りを加え、前後三回にわたつて同人を床上に転倒させた。」と主張し、これに対し被告人および弁護人は被告人と松山との身体の接触は認めながら、松山の転倒は被告人の行為に基くものではないと主張し、双方の側の証人はそれぞれ自己の側の主張に概ね副う供述をしている。
そこで検討するに、松山が三回目に転倒したのを目撃したという定政熊雄は、その目撃したという被告人の行為についてほぼ検察官の主張に副う供述(第五回公判調書中の証人定政熊雄の供述部分)をしているが、前掲の各証拠に照らすと、定政が校長室へ入つた時期等に鑑みて果して同人が被告人の行為を目撃したかどうかについて相当の疑問があり、右供述は措信し難く、前掲各証拠については、公訴事実(一)(二)につき第三、二において述べたと同じ理由(公訴事実(一)(二)の事件発生後公訴事実(三)の事件までにおける理事者、松山校長と組合の関係は、昭和四〇年八月に入り数回団交が開かれたとはいうものの格別の好転をみなかつたことを付加する)により、そのまま全面的には措信し難いものとして、右各証拠を総合して前示のとおり認定した。
三、右に認定した被告人の行為に対する法的判断。(特に証拠を引用していない事実は、前掲各証拠を総合して認める趣旨である。)
(一) 公訴事実(三)の被告人が松山校長の身体を数回にわたり押した時点において、被告人の背後には一〇数名の組合員がいて背後から被告人を押すような力が加つたであろうこと、校長室の床は木床、コンクリート床等に比すれば本来やや滑りやすいプラスタイル張りで(当裁判所の昭和四三年一月九日付検証調書)、しかも当日は始業式の日であるから少くとも清掃されていたであろうことは推認されるが、右時点において松山校長の身体を直接押したのは被告人一人であつたことおよび前掲各証拠によつて認められるその前後の状況等を総合すれば、松山校長が転倒したのは被告人の右行為に基くものと判断するのが相当であると思料する。
なお弁護人は、松山校長の転倒は同人の作為による疑いが濃いと主張するので、この点につき検討するに、川原が校長の転倒した直後「芝居をするな。」と叫んだこと、川原は組合員ではあるが、組合員歴、学校内における地位等から見て比較的第三者的証人と言えるし、更に校長が三回転倒した時間は極く短いので考えてものを言うほどの余裕はなかつたこと、校長は転倒した際も終始両手の鞄と風呂敷包を離さなかつたこと、三度も転倒したのにその間被告人らに対し一言も発しなかつたこと、学校と組合との関係は八月に団交が開かれたもののなんら好転せず行き詰り状態にあつたこと、松山は当時被告人らに対して強い敵対感情を抱いていたであろうと推認されること、松山は七月一五日以来警察の調べが続いていることを知つていたこと等の情況に徴すれば、当初からのものではないにせよ瞬間的に作為的な―踏ん張ることも出来るのに倒れるというような―心境になつたのではないかという疑念を容れる余地が全くないとは言い切れず、又作為的かどうかは別にしても、転倒の前後の状況、転倒の態様を見ると、校長の踏ん張り、ないし倒れまいとの努力がこのような場面に置かれた通常人の場合に比べてある程度足りなかつたのではないかと疑われるけれども、如上の被告人の背後からの力、床の状況等が作用して一見不自然に見える転倒の態勢になつたとも考えられ、未だ以て被告人の行為と校長の転倒との間の因果関係を否定し去るに足らない。なお被告人が傷害の結果を予期して右行為に及んだものでないことは、前掲各証拠に照らし明らかであるが、右時点における該状況は認識し得たはずであるから、傷害の結果発生に対する予見可能性も肯定せざるを得ない。
次に被告人が校長の身体を押した行為の強弱の程度であるが、被告人の右行為は校長が退出しようとして被告人に当つて来たことに対する反撃的な行為であること、校長の転倒の態勢等に徴すれば、さほど強烈なものであつたとは考えられないし、その行為の時間も極めて短時間であつたと認められる。
(二) 次に被告人の右行為の実質的違法性について検討する。
(イ) 公訴事実(三)の事件までの背景事情についてはすべて如上のとおりであるが、昭和四〇年九月一日組合の行つた生徒に対するビラの配布行為並びに学校の始業式において校長が生徒に対する訓示の中で組合のビラの配布に関して如上認定のとおりの発言をしたこと、およびこれに対し組合が決議に基き釈明を求め抗議したことの当否について検討するに、学校の特殊性に鑑み組合が当面直接的には理事者との間の問題について感受性の強い人格形成の途上にある生徒に対しビラを配布するについては慎重を期すべきであつて、理事者との紛争の渦中に生徒を引き入れるが如きことは極力避くべきことであろうが、如上認定のとおり、生徒が理事者と組合との間の紛争を察知し、動揺や教師に対する誤解が生じていると看取せられた時点において、組合が紛争についての真相、実情を生徒に伝え生徒の誤解を解き動揺をなくすために生徒にビラを配布することは、学校における生徒の地位から見ても、教師のあり方、行為に対する正しい理解を求める意味で、そのビラの内容が虚構でなくかつ故らに理事者側を中傷誹謗するものでない限り(本件のビラにはこのような点は認められない)、格別不当違法視さるべきものではなく、正当な組合活動の範囲を逸脱したものとは思われない。
校長が生徒に対する訓示の中で組合のビラ配布の行為について発言したことは、校長の主観においては組合のビラによつて生徒が動揺することを防止し勉学に専念させる教育的配慮からの発言であつたとも考えられるが、惑わされずと発言した限り、その心情、意識の根底においては反組合的なものがあつたとみなされても已むを得ないし、況んや組合側がこれを組合活動に対する干渉的発言と受け取り、これに対し釈明を求め抗議する行動をとつたことも、敢て不当違法視するには当らない。
(ロ) 公訴事実(三)の事件当日の現場における具体的状況。
校長の始業式における発言がその主観において如上のとおりの趣旨であつたとすれば、組合から釈明を求められ抗議を受けた校長が、これに対し釈然たらざる感じを抱いたであろうことは推認できるが、それにしても、組合員の発言の中から校長の発言に対する組合の受け取り方は十分に認識し得たはずであるから、ただ惑わされずにといつたことはないと否定するのみで相当長時間にわたり沈黙を続けたことは、妥当な態度であつたとは認められず、組合員の誤解と考えるなら心境を述べてその解消に努める等組合員に対しさらに説得の方法を講ずべきであつたと思われ、沈黙を続けた後早急に退去しようとした校長に対し被告人ら組合員がこれを阻止する態度をとつたこともむりからぬものがあると思料される。
(ハ) 被告人の右行為が校長の転倒を予期してのものでなかつたことは先に認定したとおりであるから、転倒の結果の傷害は被告人にとつて予期せざる結果であるとともに、右事件当時の全事情を併せ考慮すれば、被告人の右行為の実質的違法性の判断について、傷害の結果はさほど大きな比重を占めないと考えられるが、傷害の結果発生についての予見可能性を否定し得ない以上、校長の負つた傷害の程度について考察するに、校長は当日午後四時頃大阪医科大学附属病院で田辺治之医師の診察を受けたものであるが、その傷は初診時においては皮膚の表面に格別の変化は見られず、その後同月一〇日までに三回通院治療を受けたが、湿布薬を塗布して貰つただけでその他に格別の処置もされず、校長は翌二日から自動車を利用したとはいうものの自宅から自動車の乗場まで数百米の距離の間は、独力で歩いて登校し、格別仕事に差支えるほどの傷害ではなかつたこと、松山校長自身も当日受診直後傷は大したことはないと洩らしていたことが窺えること(第七回公判調書中の証人小野利一郎の供述部分)等を総合すれば、全治二週間の診断はされているが、軽微といえる程度の傷害であつたと認められる。
(三) 以上説示のとおりの公訴事実(三)の事件当日までの経緯を背景として、被告人の右行為の動機、目的、手段態様、傷害の程度、法益の均衡等諸般の事情を考慮すれば、右行為は健全な社会通念に照らし、未だ傷害罪として処罰するほどの実質的違法性を具備していないものと認めるのが相当である。
第五、結論
以上のとおり、被告人に対する本件公訴事実はいずれも実質的違法性を欠くものとして罪とならないので、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。
よつて主文のとおり判決する。